「演奏家」復権に向けて

ここのところ聴いている音楽がどんどん懐古的になってきて、自分でも少し当惑している。昨日借りてきたCDは「江利チエミ」である。「堀ちえみ」ですらない。ほぼ自分の生まれる前の音楽である。

聴きどころはもちろん彼女の歌唱力なのだが、この時代の音楽はそれ以上に伴奏に強く耳を奪われてしまう。すべてが生演奏の録音なのである。バイオリンの音がしていればそこで誰かがバイオリンを弾いているし、オーボエもクラリネットも誰かがマイクを前に吹いているのだ。

近年はこういうのをすべてシンセというかサンプラで済ませてしまうことが多く、ぼーっと聴いていると結構わからないぐらい似ているのだが、実際の生演奏と聴き比べるとまるでダシの入っていない味噌汁のようでどこか味気ない。サンプラの音ばかりを聞いていると「こんなもんだったっけ」と思うようになってくるのだが、たまに生演奏の録音を聴くとその情報の多さに驚かされるのである。

しかも、「さのさ」のイントロを聞いているとそこに「指揮者」の存在感まで感じてくる。かなりテンポの揺れた演奏なのだが、四本(たぶん)の木管がぴたりと息のあった演奏を聞かせてくれる。誰かが棒を振らないとなかなかこうはうまくいきそうにない。

(ちなみにこの音源は非常に音質が悪いが、現在CDで購入できるものは恐らくデジタルリマスターされていてちゃんとHi-Fiでノイズレスである)

ここで森高千里の全盛期の楽曲を聴いてみると、対極のように感じる。

森高千里が嫌いなわけではない。個性的な歌声の女性ボーカルとして評価しているつもりである。ただ、江利チエミの時代から森高千里の時代に至る間に、かなり大事なものが失われてしまっている気がしてならない。

僕はこのシンセ全盛期に電波新聞社の「Computer Music Magazine」の編集に携わっていたのだが、当時シンセやサンプラを肯定する側の論調にこんなのがあった。

  • シンセやサンプラを使うことで、作曲~編曲~マスタリングに至る音楽制作をすべて一人の人間で完成させることができる。
  • これによって、音楽制作を演奏家の感性に振り回されることから解放し、全てをクリエータの手に取り戻すことができる。
  • これにより、クリエータは自分の作品を100%コントロールすることができるようになる。

当時20代であった僕はこういう夢を一緒に見ている側に立っていたのだが、いつの間にかその夢が少なくとも「手間に合わない」ものであることを気づかされることとなった。人間の演奏に匹敵するMIDIデータを(数字をいじって)作ろうとすると大変な手間がかかるのである。PerformerやVisionにはそれっぽい機能はあったのだが、せいぜいエフェクトの範囲であって、「それっぽく」はなるものの「いい感じ」にはならないのである。

結果、シンセを使った伴奏はヒューマンな方向をあえて捨てて、デジタルな刺激を求める方に倒れていってしまったように思う。これはこれで間違った判断でもないと思うが。

しかし、クリエータが作品を100%コントロールすることと、デジタルな音楽を作ることは本来全く別のベクトルの話で、クリエータという仕事をアーティストとして完結するために世の中がデジタル音楽ばかりになってしまっていいかというと、それは全く違うと思うのだ。

このへんの話が極まってしまっているのが、初音ミクをはじめとするボカロの音楽である。

ボカロPをめぐる話は、クリエータ云々の件と全く同じ話が繰り返されていて興味深い。ここにもクリエータ主義の陰で音楽というものの範囲が極端に狭められている構図が見て取れる。しかし90年代同様、今回も多くの消費者はクリエータ主義とそこから生み出される作品を受け入れてしまっているようだ。

僕は正直このボカロ全盛は長く続かないと思っている。音楽の1ジャンルとして定着はするかもしれないが、メインストリームとはなり得ないのではないかと思うのだ。かつてAvexがCDランキングを占めた時代があり、「あれが悪いとは言わないが、あれが占めるようになってしまってはもう終わりなのではないか」という気がしていたのだが、そこに「キロロ」や「ゆず」が救世主の如く現れ日本の音楽を一度リセットしてくれたように思う。

音楽は一度80年代以前にまで戻り、演奏家と膝を突き合わせて再編した方がいいのではないかと思うのだ。音楽における演奏家の持っていた意味をポピュラー音楽でも大切にすべきだったことを再確認して、アコースティックとは言わずとも人が手で足で声で演奏することにもっと敬意をもって再度音楽業界を作り直すべきなのではないかと思うのである。

それにしても江利チエミの「Jambalaya」いいなぁ。

カーペンターズのが有名だけど、

江利チエミの妙にこぶしが回ってるのも元気でなんかいい。