名車再生!のエド、かっけー

最近、ディスカバリーチャンネルでやっている「名車再生!クラシックカーディーラーズ」という番組にはまっている。マイクとエドの二人が出てきて、マイクが車を買い付け、エドがそれを整備して再びマイクがそれを売って儲けを出すまでを1時間でまとめた番組である。

この番組を見ていて何が心地よいかというと、マイクからもエドからも、車に対する深い愛情が感じられることである。マイクは自分の趣味で車を買い付けてきて「どーだい、いーだろう」とエドに見せ、エドはブツブツ言いながらその車を隅々まで修理する。そのシーン全てから二人のクルマ好きがにじみ出てきているように思える。

ディスカバリーチャンネルでは、他にもいくつか旧車をレストアする番組があるのだが、なぜか他の番組からはここまでの愛情が感じられない。

なかなか普通は見ることができない古い車をリフトで上げて下から見たり、エンジンルームの中を見られるだけではなく、キャブやトランスミッション、パッキンやらベアリングやらを交換する過程が見られることも、メカ好きにはたまらない番組である。内装の貼り直しや外装の傷消し、再塗装なども見せてくれる。プロの丁寧な仕事を、駆け足ではあるが見ているのは楽しい。

そしてもうひとつ、これだけは書いておかないといけないと思うのだが、この番組、吹き替えが秀逸なのである。二人の個性を引き出すような吹き替えを丁寧にやっていて、それに耳を傾けていると、声優という仕事がいかにクリエイティブな仕事であるかをしみじみ感じ取ることができる。

車好きの人は是非。

ポピュラーのボーカルは基本的に「ソリスト扱い」

DTMは、僕がかかわっていた(僕は昔、電波新聞社から出ていたCOMPUTER MUSIC MAGAZINEの編集をやっていた)頃に比べると遥かに進歩している。バッキングに限れば、サンプリング系の楽器と生楽器の区別はかなり難しいところまで来ている気がする。

しかしである、ことフロントのことになると話は違ってくる。ソリストが演奏するソロ演奏に『打ち込み』で勝負するのは分が悪すぎる。相当な努力をすれば、打ち込みでもそれらしい感じにはなるのだろうが、手間が合わないのである。そんな手間をかけるなら、ソリストを呼んで弾いてもらった方がよっぽど早いし結果もいい。

結局のところ、僕にとってはどんなにヘタなアイドルであろうとも、ボーカルは「ソリスト扱い」であり、そうである以上、打ち込みではそうそう追いつけないほどの情報量が録音に残されているのである。

あえて「打ち込み」と限定しているのは、リアルタイム入力系のデバイスを使ってソリストが演奏をした場合には話が別になるからである。

したがって、ボカロも近い将来にリアルタイム入力が可能になれば少なくとも僕にはほとんど抵抗がなくなるように思う。僕がマイクに向かってオッサンの声で歌えば、そのニュアンスを保ったままスピーカから女性の声が流れるのだ。もちろんリアルタイムである必要はなく、後処理で女声にコンバートするような技術でもいい。

プリキュアのエンディングアニメにモーションキャプチャーが不可欠であるように、ボカロもそっちの方の技術が出てきて初めて本物になってくるのではないかと思う。

カット打法

甲子園で物議を醸している例の打法だが、結局のところ野球というスポーツが根本的に抱えている問題が一つの形で現れただけのように思う。

僕はまぁ別に野球に詳しいわけではないのだが、正直「ルールがややこしすぎ」というか細かすぎ、というか、野球を「見ていて楽しい」スポーツで有らしめるために追加されているルールや、ルール以前のマナーが多すぎるように思える。

「四番打者を全打席敬遠」もそうなのだが、ルールでそれが許されているからもちろん悪いことであるわけでもないのだが、それが当たり前になってしまうと野球というスポーツの魅力が半減してしまう。

今回の打法も、それが現行のルールで「ダメ」とされていないなら、それをいきなりトーナメントの途中で「ダメ」にするのはあんまりだと思うのだが、じゃああるチームの全打者があの打法をマスターして(というか、マスターできた人間だけで打席を組んで)全打席であれをやれば、もしかすると甲子園で優勝してしまうかもしれないが、決勝のスタンドはきっとガラガラになってしまうだろう。だれも見ないもん。そんな試合。

サッカーなどは、「これを許すとスポーツとして面白くなくなるから」という理由で決められているルールはオフサイドぐらいなのではないだろうか。

甲子園はなんだかんだ言っても「興行」で、「勝ち負け」よりも見て面白いことが優先されるだろうから、無理を承知で興行主側から「あれはナシ」というお達しが出たのもしかたがないとは思う。

でも、スポーツって「勝てばいい」というシンプルさだけで維持できるのが理想だともうわけで、その点野球は「勝てば何やってもいいのか!」みたいな話が出てくるあたり、興行スポーツとしてどこか無理があるような気がするのである。

Perfumeとボーカロイド

先日兄と話していて、「Perfumeは好きなのになんでボカロはダメなんや」というようなことを言われ、自分でもちょっとうろたえながら考えてみたことがある。

僕にしてみると、その違いは減算で作るか加算で作るかの違いだと思う。

Perfumeは、スタジオで録音された有り余る情報量を持った肉声から、プロデューサーなりが不要と判断したものをそぎ落として最終的な声となる。昔はせいぜい切り張りしたりイコライザーやコンプ/リミッターをかける程度だったが、今やピッチ情報を選択してそぎ落とせる時代である。しかしピッチを変えても彼女たちの声の残すべきところはきちんと残されている(そういう作業をしている)。何を残すかの判断は演出に属することなので曲ごとに異なるが、息の音だったりピッチやテンポの揺れだったり、いろいろである。今でも切り貼りのようなことはやっているだろう(むしろ昔よりずっと楽なので増えている?)。

逆にボーカロイドの方は、譜面と歌詞を入力し、それをいじくり倒しながら肉声のニュアンスを加えていく作業になる。ピッチやアクセント、テンポの揺れを人為的に付け加えていく作業だ。演出として息の音やその他のボーカルノイズを入れることもあるだろう。

この二つの作業は、結果として同じような音に近づいていくことはあっても、結果的に同じものにはならないだろう。無理数から有理数をいくら引いても無理数であるが、有理数に有理数をいくら足しても有理数にしかならない感じ、というか。

無限に手間をかけることで漸近はするかもしれないが、 「それでは手間があわない」のである。「手間をかけてミクにこんなことをさせた!」ということ自体が目的ならまだしも。

ボーカロイドとサンダーバード

どうも「初音ミク」をはじめとするボカロ(ボーカロイド)になじめない。

テクノとかエレクトロニカとか散々聴いてるのに、今更電子音がなじめないのは僕が一時でも歌の勉強をしていたからだろうか?などと最初は感じていたのだが、どうも違う気がする。どうしてもデモ音源を聴いているようにしか思えないのである。現状のボカロはどうも「サンダーバード」の域を出ていない気がするのだ。

なぜ急にサンダーバードなのかというと、CATVで「サンダーバードのすべて」を見たからだ。そして驚いた。サンダーバードのシリーズは、その後人形がリアル化の一途をたどり、等身もどんどん人間に近づいていって、結局「謎の円盤UFO」では全てを人間が演じることになったそうだ。

現在のボカロは、「サンダーバード」なのではなかろうか。聴く側からするとその独特の違和感は癖になるような性質を持っていながら、作る側は常にそれを人間に近づけることを試行している。バージョンアップによって一歩ずつ人間に近づいていくことは賞賛されるが、ある線を超えた時点で作る側が「人がやればいいんじゃない?」ということに気づいてしまう。それは結局のところ、そもそも最初から「人間でやりたかった」ということを思い出しただけなんじゃないだろうか。

この「サンダーバードのジレンマ」とも言えるものは、特殊な表現が「人間に近づける」ことを指向した際に必ず現れてくるものなのではないだろうか。

アニメなどはここに落ちず、うまくアニメとしての表現として昇華させることに成功している。ボカロがアニメのように長く続く愛されるものになるためには、このあたりの目標点を早い段階で見定める必要があるのではないかと思う。

普通名詞と固有名詞

またくだらないことを思い出した。

小学校の時だったか、国語の授業で普通名詞と固有名詞という言葉を習ったのである。

「ネコ」は普通名詞で「タマ」は固有名詞だという。そんな説明を聞かされてみんなは素直に納得していたようだが、僕は何かひっかかかりを感じていた。

で、授業の後で先生に聞いてみたのである。

「先生、『洗濯機』は普通名詞ですよね」

「その通りだよ」

「じゃぁ、『全自動洗濯機うず潮』は普通名詞ですか固有名詞ですか?」

「それは一般に図鑑に載っている言葉ではないから固有名詞ではないか」

「じゃぁ、僕がうちの洗濯機に『うずちゃん』とか『ウージー』とか名前を付けたら、これは固有名詞ですよね。その際の『全自動洗濯機うず潮』は普通名詞ですか、固有名詞ですか?」

こんなやりとりをしたのである。ずいぶんひねくれたというか、理屈っぽいガキである。それにしても『全自動洗濯機うず潮』が時代を感じるではないか。

それに対する先生の答えは、

「洗濯機に名前を付けるやつなんかおらへん」

であった。

この「うず潮問題」の答えはまだ誰からももらってない(というか誰にも聞いてない)のであるが、この時の先生の困惑した顔は今でも覚えているのである。

不思議な出来事

もうだいぶ前になるのだが、夏になるとふと思い出す出来事がある。

墨田区の横川近辺で仕事をしていた頃のある暑い日のことである。

昼食をとるために外に出て、仕事場に戻る途中にある信号(横川小学校のあたり)を待っていた僕は、信号が青に変わったと思い横断歩道に踏み出したのだ。

ところが何故か信号は赤のままで、その時通過しようとしていた車が僕に気づき、クラクションを鳴らして止まってくれたおかげで僕は我に返り、事なきを得たのだった。

僕は割と自己分析が好きで、「あの時なぜ自分はそう思ったのだろう」と後で考えることが多いのだが、改めて同じ信号の前に立ち、あの時の状況など考えてみたりもしたのだが、どうしてもあの時「信号が青になった」と自分が判断した理由はわからず仕舞だった。

これだけならばただ「道端でぼーっとしてしまい車に迷惑をかけた自分に反省」だけなのであるが、この話には続きがある。

同じ交差点はその後も毎日通っていたのだが、10日ほどたったある日、いつものようにそこで信号待ちをしているときにふと左の方を見ると、花が飾られている!

これを見て一気に気温が10℃も下がった気がしたのだが、その花の場所は

あの時、車が止まってくれなかったら、きっと僕が横たわることになっていたであろう場所

だったのである。

この事故はその付近にお住いの方ならまだ記憶されているかもしれない。しばらくその場所には警視庁の看板があり、事故を目撃した人に連絡を要請していた。

僕はもちろん事故を見ていたわけではないのだが、それを見て改めてその交差点のその場所から周囲を見回し、五感を最大限に効かせて「ここに事故が起こるような要因があるのではないか」と当時の自分を振り返ったりしたのだが、やはり何度考えてもそこは見通しが悪いわけでもない、ただの信号がある平凡な交差点にしか見えなかった。

こんな話を誰かにしたところで相手にしてもらえないので黙っていたのだが、今日久しぶりに思い出したので書いてみた。

これが作り話なら車が止まった後に「死ねばよかったのに・・・」などという声がどこからともなく聞こえてきそうなものだが、生憎とそういうのもなかったのである。

昭和の音楽を聴き始めたワケ

僕がこのところ昭和60年代~70年代の音楽に凝っているのは、ひとえに「初音ミク」への反動なのかもしれない。初期の山口百恵とか、桜田淳子とか、水木一郎とか。

この頃の音楽は、伴奏のほとんどすべてが生楽器による演奏で、ホルンの音がしようがオーボエの音がしようが、実際にその楽器を奏者が演奏している。今では考えにくい贅沢である。

そんな音楽なので、とりあえずボーカルの品質をおいておくとしても、後ろで演奏されている音楽の一つ一つのパートそれぞれに耳を傾けて聴くだけの旨みがきちんとある。

聞き直してみるまでは当然電子音楽だと思っていた、ピンクレディーのUFOのような曲でさえ、キモになるピロピロ音以外はほぼ生楽器の演奏である。オープニングなどピアノである。

岩崎宏美の「想い出の樹の下」のホルン、トランペットなどは「入魂」としか言えないような素晴らしい演奏だ。

当時の歌番組のビデオなど見ると、「たかがアイドル」のバックバンドでさえ、30人近い人がステージに上がっている。ストリングスを含め、木管金管打楽器ピアノと、まさにフルバンドである。「八時だよ!全員集合!」なんかも今思えばそうだった。

我々は、人間が手で行う演奏をもう少し再評価すべきなのではないかとおもう。生楽器でなくてもかまわない。せめてシーケンサにステップ入力したような音楽が音楽市場を席巻するようなことにはなってほしくないだけなのだ。

日本刀とバターナイフと銃弾

以前、「トリビアの泉」なる番組で、「日本刀に銃弾を当てると刀が折れるか銃弾が切れるか」という実験をやってみた結果、銃弾が真っ二つになり「日本刀スゲー」というような空気がスタジオに充満していた。

下の動画はトリビアのものではありませんが。

僕もその番組を見たときは素直に同じ感想を持ったものだが、先日、ディスカバリーチャンネルの実験番組の、日本刀とは全く無関係に「固定したただのバターナイフに銃弾を当てると、銃弾は真っ二つになる」という実験を見て「実験というのは本当に難しいというか、嘘ではないにしろ、歪んだ印象を持たせられるもんなんだなぁ」と思ったのであった。

実は銃弾というものは印象よりもずっと脆いもので、その直観とのズレを利用すれば、モノの価値をずっと高く見せることができるということだ。

逆に消費者ができることといえば、「これはこんなすごいことができる」という実証を見たら、必ず「もっと低いグレードのものではそれはできない」という同じ実証がないと、実証としては無意味であるということを常に頭の隅に置いておくべきなのではないか、ということであろう。

乗算の可換性と除算

除算は減算の繰り返し

マテマティカ2の再放送を見ていたら、昔のタイガー計算機が出てきて、除算を引き算の繰り返して置き換えても差し支えないことを説明していた。

41個の卵から6個ずつ取っていくと、6回取れて5余るから41÷6=6あまり5とのことである。

この場合除数と商が同じになってしまい、ちょっと分かりにくくなっている(逃げている?)のだが、51個の卵から6個ずつ取っていくと、8回取れて3余るから、

51÷6=8あまり3 という割り算として解釈できる、と言っているのだ。

みんな納得していたようだが、本当にそれでいいのか君たち。

話を単純にするために、12個のボールを、4個ずつ3つに分けている絵を考えてみよう。

12を3個のカタマリ四つで示す図

12を3個のカタマリ四つで示す

割り算の問題 その1

この絵から割り算の問題を素直に考えると、

「12個のボールを四人で分けると、一人何個になるでしょう」

というような問題になり、式と答えは

12÷4=3 答え 3(個)

というような問題になる。

割り算の問題 その2

しかし、先のマテマティカの問題から考えると、この同じ図から

「12個のボールを3個ずつ分けると、何人に分けられるでしょう」

「12÷3=4 答え 4(人)」

という問題が考えられ、このような式が立てられることになる。

この問題でこの式を立てる過程には、結構大胆というか無責任な飛躍があるように思われる(間違っていると言っているわけではありません)のだが、小学生でも呑み込みのいい子は、この問題を見て式を立てて答えを導いているように思える。

小学校の先生は、この後者の問題にこの式を立てられることについて、どう子供に説明しているのだろうか?

除算を減算の繰り返しとして帰納的に定義すると後者の説明はできるように思えるのだが、子供にそのような定義を教えている?

乗算の問題 その1

さて、同じ絵から乗算の問題を作ってみることにしよう。最初に思いつくのはこれだろう。

「4人の人にボールを3個ずつ配るには、何個ボールが必要でしょう」

「3×4=12 答え 12(個)」

以前、この問題に「4×3=12 答え 12(個)」と答えた子供に「×」が付けられ、話題になっていた。実はこのエントリの主たるテーマは、その議論を読んでいた時のモヤモヤから発生しているのだが、それについてはここでは直接触れることを避ける。

乗算の問題 その2

さて、除算の場合は二つの問題が考えられた。乗算の場合はどうだろう。

除算の時は、可換な項を入れ替えた二つの式が立てられる(と思われる)二つの問題を考えられたが、乗算の場合も同様にできるだろうか?つまり、式を立てると、「4×3=12 答え 12(個)」が正解となるような問題はあるのだろうか?

「3個ずつのボールを4人の人に配るには、何個ボールが必要でしょう」

「4人が3個ずつボールを持っていますボールは全部で何個でしょう」

色々考えてみても、たぶんこれらの問題はすべて「3×4=12 答え 12(個)」と式を立てないと今の小学校では「×」をもらう問題になってしまうす。女房曰く「基本的には、『ずつ』が付いている方を先に書かないとダメ」ということらしい。

ただし女房は「『ずつ』の方を先に書いてはいけない、例外的な問題に遭遇したことがある。思い出せないけど。」とも言っているので、それはもしかして「乗算その2」に相当する問題なのかもしれない。

上の絵から、式が「4×3=12 答え 12(個)」となるような問題が考えられるのだろうか?それが今の僕の最大の疑問なのである。