高鈴 「愛してる」

土曜日、昼間から居間でウトウトしていたら子供が見ていたアニメの挿入歌が流れてきた。

最初は何となく聞き流していたのだが、途中からとんでもなく神経がそっちに向かってしまって、曲とアニメが終わるときには歌詞の一部で検索して曲名とアーティストを突き止め、15分後にはmoraでアルバムごと購入していた。こんなこと久しぶりだ。

それが高鈴の「愛してる」である。夏目友人帳の第二期の挿入歌らしい。それにしても美しいメロディと歌詞、それに加えて確かな技術に支えられた歌声が息を飲むレベルで、失礼ながらアニメの挿入歌のレベルをはるかに超えているように思えた。

声はどこか倉橋ヨエコを思わせるようなところがあるが、歌う歌自体は歌謡曲としてはストレートな内容である。非常にインパクトのある歌声なので耳を引くと思うのでもう少しメジャーになってもよさそうなものだが、もっとも売れたアルバムでもオリコン最高111位と今ひとつ振るわない。

僕がアニメの主題歌を耳にして声に惹かれはまっていったボーカリストは実はもう一人いる。こち亀の「葛飾ラプソディー」を唄った堂島孝平である。この人もなかなか頑固というか自分の音楽をひらすら貫く人のようで、高鈴同様メジャー街道に乗るところまで行っていないように思える。

ただ、堂島孝平同様、高鈴も固定ファンが根強く着いていて音楽活動をつづけていくことに支障が出るような状態では無さそうである。

彼らを見ていると、実は最も幸せなアーティストというのはこのように自分の音楽を自由なペースで好きにやらせてもらって、精神や体を病まずにずっと音楽活動を続けていけるような人たちなのではないかという気がする。

全部完全にイメージだけで語っているのですが。

ボーカルのブレス(息継ぎ)音

21世紀以降ぐらいからだか、スタジオレコーディングされたボーカルにはっきりとブレス音が聞き取れるものが増えてきたように思う。

平原綾香や平井賢あたりから目立ってきたように思うのだが、僕が最初に意識したのはPerfumeのBaby Cruising Loveである。この曲には部屋のスピーカで大音量で聞くと頭が吸い込まれるのではないかと思うほどのブレス音が頭に入っている。

ブレス音でググってみると、この音について否定的な人の多さに驚かされる。曰く

  • 美空ひばりはブレス音が全く聞こえなかった
  • ブレス音が大きいのはブレスが下手ということ
  • きちんと訓練された歌手はブレス音を出さない

とまぁおおむねこのような論調になるのである。

昭和以前にはまぁこのようなこともあったのかも知れないが、今だにこのようなことを言うのはちょっとどうかと思う。

現在のスタジオレコーディングされたCDに入っているブレス音は、すべて意図的に「録音され」て「入れられた」か「残された」ものである。

割と最近のレコーディングでは、西野カナの「Daring」がわかりやすい。

このアルバムに入っている3曲で、表題曲の「Daring」ははっきりとブレス音が残るようにレコーディング、マスタリングされている。

二曲目の「LOVE & JOY」は、まったくブレス音が聞こえないが、三曲目の「Still love you」は少しだけ聞こえる、というような構成になっている。

ブレス音がCDに入っているかどうかというのは、歌手の技量とは全く関係なくレコーディングとマスタリングのプロセスの中で音楽的演出を考えて取捨選択されているだけなのである。

昔はテープの編集で音楽を作っていて、ブレスの音を捨てるのは大変な作業だったので、最初からブレス音がマイクに入らないようにしたりそもそもブレス音が出ないように訓練された歌手がありがたがられていただけなのである。

すべてがデジタルレコーディングされている現在ではブレス音も含めてすべて録音してしまって、後で不要なものを削除していく方がよほど効率がいいので歌手はブレス音をあえて消す努力をする必要がないというか、意図的にブレス音を残すような歌い方をしているのである。

もちろん聴く側にしてみれば、ブレス音がうっとおしいと思うのは自由である。ただそれも含めて音楽を作る側の意図なので、嫌いならそれでしょうがないというだけのことなのだ。「Baby Cruising Love」の最後に入るブレス音は、肉体的には必要がないものなので、後で足しているのではないかとさえ思われる。無論それも音楽なのだ。

ブレス音を意識的に残すという音楽的演出はだいぶ前からあったものだが、今になってボーカロイドとの差別化になっているところがちょっと面白い。もちろんボーカロイドの声に後でブレス音を足すことはできるのだが、こんなところで「引き算で音楽を作る」ことと「足し算で音楽を作る」lことの違いを感じることができる。

このブレス音は、フルートソロのCDでも残されているものと消されている(もしくは入らないような配慮のもとでレコーディングされている)ものがある。もちろんもともとブレス音が小さいフルーティストもかなりな割合でいると思うが。

しかしこのブレス音ごときで「気になる」とか言っていたら、ピアノ弾いている間ウーウー唸っているようなピアニストのCDなど絶対聴けないのではないかと思う。まぁ嫌いなら嫌いでしょうがないけど、そんなことでグレン・グールドのゴルトベルグ変奏曲を聴かずに死ぬのはちょっともったいないと思うぞ。

集団投射

先日、「題名のない音楽会」でノイズミュージックが取り上げられるという大事件があった。

http://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0413/jc_140413_4804036021.html

ノイズミュージックの認知度を上げる千載一隅のチャンスとあってか、大友良英氏のテンションも上がりっぱなしである。

その中で、高柳昌行/阿部薫の「集団投射」が紹介されていた。

阿部薫は以前からちょっと真剣に聞いてみたかったので、これを機会に御茶ノ水「ジャニス」で借りてきた。

このジャニスのすごいところは、こういう超マイナーなCDが普通にレンタルされているところである。ただし値段は結構高い。でもAmazonで買うと2万円以上にもなっているCDなので、多少高くても「ありがたや、ありがたや」と財布を開いて借りてくるしかないのだ。

http://www.amazon.co.jp/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E6%8A%95%E5%B0%84-Mass-Projection-%E9%AB%98%E6%9F%B3%E6%98%8C%E8%A1%8C/dp/B00005B1IN

で、SONYのUDA-1で再生が始まった瞬間、僕は反射的に頭を少し低くしてしまった。

身の危険を感じたのである。

ほぼ「音による爆撃」と言ってもいいかもしれない。

始まった瞬間から全力である。で、そのままおしまいまでずっとそのテンションが維持されている。こんな音楽を夜な夜なやっていたら、それこそ長生きできそうにない。

あまり日常生活に疑問や不満や理不尽を感じていない時には、この音楽はそれこそ雑音にしか感じられないかもしれないが、そういったものが自分に鬱積しているときに聴くと最高のBGMになるような気がする。

この音楽が生まれた時代もまた、そういう時代だったのだろう。

ブレスの位置

前回中島みゆきの話がブレスのネタだったので、その続きというか・・・

男女問わずボーカルがその音楽を演出する際に最も大事な要素に挙げるべきもののひとつは「ブレスの位置」なのではないかと思う。

自分で何かの曲を歌っていても、ブレスの位置がふらふらと動いているうちは「まだこの曲は歌いこめてないなぁ」という気がするし、逆にその曲についての自分なりの「演出」が決まってきたときは、自然にブレスの位置が固定されてくる。

ブレスの位置を語る上で一番わかりやすい例は、カーペンターズの「Goodbye to Love」ではないかと思う。

この演奏をブレスの位置に注目して聴くとわかると思うが、ブレスの位置が

(I’ll say goodbye to love)

(No one ever cared if I should live or die)

(Time and time again the chance for love has passed me by  And all I know of love is how to live without it)

(I just can’t seem to find it)

(So I’ve made my mind up I must live my life alone)

(And though it’s not the easy way  I guess I’ve always known  I’d say goodbye to love)

(There are no tomorrow for this heart of mine)

(Surely time will lose these bitter memories  And I’ll find that there is someone to believe in And to live for)

(something I could live for)

(All the years of useless search  Have finally reached an end)

(Loneliness and empty days will be my only friend )

(From this day love is forgotten)

(I’ll go on as best I can)

こんな感じで、単純に息が続くか続かないかや、文の区切りでブレスをしているわけではないことがわかる。ブレスは音楽的な演出のひとつで、「歌う」という行為の大事な要素なのである。

中にはちょっと聴いていて息苦しさを感じるほど長いフレーズもあったりして、このへんはカレン・カーペンターの息の長さに舌を巻くしかないのであるが、彼女自身(もしくは演出をしている兄)がその必然を感じなければこんな無理をする必要もないわけで、歌うという行為でブレスの位置は大事なのだなぁと思わされるのである。

 

中島みゆきの衝撃

僕は結構な「中島みゆき」世代で、オールナイトニッポンも聞いていたのだが、何故か「中島みゆきのオールナイトニッポン」だけは聞いた記憶が数えるほどしかない。今では伝説にもなっているそのラジオプログラムについては、改めてここで書く必要もないほど人口に膾炙しているといえるだろう。

そんな数回の「中島みゆきオールナイト」体験だが、今でもはっきりと覚えていて自分の中で反芻しそのたびに驚きを新たにしているものがある。

あるリスナーからの葉書での「『あの娘』という曲のサビで女の子の名前をたくさん並べているところがありますが、息継ぎの場所がなく一気に歌えなくて困っている。どうすればいいか」という相談であった。

普通のシンガーなら、ブレスが続くようになる練習とかコツとか、目立たないで息継ぎできる場所とかを語るところであるが、中島みゆきはこんなことを言ったのである。

『中盤を過ぎたあたりに「ひろこ」という名前があるので、その「ひ」を息を吸いながら歌えばいいんじゃないか。ガハハハ。』

本当なのである。しかも実演までしたのである。

言っておくがこの歌、「あの娘をたとえば殺しても/あなたは私を愛さない」という、ちょっと男ならぞっとするような歌なのである。とてもギャグにできるような内容ではないのだ。

それを自らギャグにし実演までしてぐひょぐひょと下品に笑ってみせる中島みゆきのオールナイトニッポンを聴いて、僕はそっとラジオを消したのである。

音楽を聴くということ

今日UDA-1の前に座りWalkmanを握り締めて音楽聴いたら、女房が来て「何してるの?」って聞いてきた。
「音楽聴いてんだよ見れば分かるだろ」って答えたらちょっと変な顔して、 「だから音楽聴きながら何してるのよ」って聞き返してくる。
こんなやり取りをしていて、多くの日本人にとって音楽って、いつの間にか「なんかやってる時についでにかけとくもの」になってるんだなぁと思わされた。
僕もこないだまでそうだったので何もいえない。
でも本当久しぶりに、スピーカの前に座って音楽そのものに聴き入るっていう行為に没入してる自分に、女房に言われて初めて気づいた次第。

「演奏家」復権に向けて

ここのところ聴いている音楽がどんどん懐古的になってきて、自分でも少し当惑している。昨日借りてきたCDは「江利チエミ」である。「堀ちえみ」ですらない。ほぼ自分の生まれる前の音楽である。

聴きどころはもちろん彼女の歌唱力なのだが、この時代の音楽はそれ以上に伴奏に強く耳を奪われてしまう。すべてが生演奏の録音なのである。バイオリンの音がしていればそこで誰かがバイオリンを弾いているし、オーボエもクラリネットも誰かがマイクを前に吹いているのだ。

近年はこういうのをすべてシンセというかサンプラで済ませてしまうことが多く、ぼーっと聴いていると結構わからないぐらい似ているのだが、実際の生演奏と聴き比べるとまるでダシの入っていない味噌汁のようでどこか味気ない。サンプラの音ばかりを聞いていると「こんなもんだったっけ」と思うようになってくるのだが、たまに生演奏の録音を聴くとその情報の多さに驚かされるのである。

しかも、「さのさ」のイントロを聞いているとそこに「指揮者」の存在感まで感じてくる。かなりテンポの揺れた演奏なのだが、四本(たぶん)の木管がぴたりと息のあった演奏を聞かせてくれる。誰かが棒を振らないとなかなかこうはうまくいきそうにない。

(ちなみにこの音源は非常に音質が悪いが、現在CDで購入できるものは恐らくデジタルリマスターされていてちゃんとHi-Fiでノイズレスである)

ここで森高千里の全盛期の楽曲を聴いてみると、対極のように感じる。

森高千里が嫌いなわけではない。個性的な歌声の女性ボーカルとして評価しているつもりである。ただ、江利チエミの時代から森高千里の時代に至る間に、かなり大事なものが失われてしまっている気がしてならない。

僕はこのシンセ全盛期に電波新聞社の「Computer Music Magazine」の編集に携わっていたのだが、当時シンセやサンプラを肯定する側の論調にこんなのがあった。

  • シンセやサンプラを使うことで、作曲~編曲~マスタリングに至る音楽制作をすべて一人の人間で完成させることができる。
  • これによって、音楽制作を演奏家の感性に振り回されることから解放し、全てをクリエータの手に取り戻すことができる。
  • これにより、クリエータは自分の作品を100%コントロールすることができるようになる。

当時20代であった僕はこういう夢を一緒に見ている側に立っていたのだが、いつの間にかその夢が少なくとも「手間に合わない」ものであることを気づかされることとなった。人間の演奏に匹敵するMIDIデータを(数字をいじって)作ろうとすると大変な手間がかかるのである。PerformerやVisionにはそれっぽい機能はあったのだが、せいぜいエフェクトの範囲であって、「それっぽく」はなるものの「いい感じ」にはならないのである。

結果、シンセを使った伴奏はヒューマンな方向をあえて捨てて、デジタルな刺激を求める方に倒れていってしまったように思う。これはこれで間違った判断でもないと思うが。

しかし、クリエータが作品を100%コントロールすることと、デジタルな音楽を作ることは本来全く別のベクトルの話で、クリエータという仕事をアーティストとして完結するために世の中がデジタル音楽ばかりになってしまっていいかというと、それは全く違うと思うのだ。

このへんの話が極まってしまっているのが、初音ミクをはじめとするボカロの音楽である。

ボカロPをめぐる話は、クリエータ云々の件と全く同じ話が繰り返されていて興味深い。ここにもクリエータ主義の陰で音楽というものの範囲が極端に狭められている構図が見て取れる。しかし90年代同様、今回も多くの消費者はクリエータ主義とそこから生み出される作品を受け入れてしまっているようだ。

僕は正直このボカロ全盛は長く続かないと思っている。音楽の1ジャンルとして定着はするかもしれないが、メインストリームとはなり得ないのではないかと思うのだ。かつてAvexがCDランキングを占めた時代があり、「あれが悪いとは言わないが、あれが占めるようになってしまってはもう終わりなのではないか」という気がしていたのだが、そこに「キロロ」や「ゆず」が救世主の如く現れ日本の音楽を一度リセットしてくれたように思う。

音楽は一度80年代以前にまで戻り、演奏家と膝を突き合わせて再編した方がいいのではないかと思うのだ。音楽における演奏家の持っていた意味をポピュラー音楽でも大切にすべきだったことを再確認して、アコースティックとは言わずとも人が手で足で声で演奏することにもっと敬意をもって再度音楽業界を作り直すべきなのではないかと思うのである。

それにしても江利チエミの「Jambalaya」いいなぁ。

カーペンターズのが有名だけど、

江利チエミの妙にこぶしが回ってるのも元気でなんかいい。

音とそれを聴く耳

実は今日、我慢できなくなって銀座のSONYショールームに行ってきた。

新しいハイレゾ対応ウォークマンの音を聴くためである。

で、分かったことは、

「僕には、ハイレゾ音源を聴き分けられるだけの耳はない。昔はあったのかもしれないが、少なくとも今は、ない」

という、悲しい現実であった。

はっきり言って、僕にとってはプレイヤーのアンプやヘッドホンによる音の違いの方が100倍差が出る。192Kbpsのmp3と非圧縮音源の音の違いは分かるけど、非圧縮のCD音源以上になるともうさっぱりわからない。

だがしかし、非圧縮のCD音源をちゃんとした機器を通して聴いたときの多幸感は感じることができるので、今後CDをアレするときは非圧縮でいくことにしようと思う。ヘビロテになっているアルバムは、再度アレしなおそうかとも思っている。

で、非圧縮でいくならばそれなりの容量は必要なわけで、結局のところ128GBのNW-ZX1をもしかすると12月に買ってしまうのかもしれない。ヘッドホンはハイレゾ対応にしないかもしれないけど。

でも、Xperiaと別にNW-ZX1を持ち歩くのもちょっと酔狂な感じがするんだよなぁ。

ハイレゾ音源

SONYから、moraでハイレゾ音源の販売を始めるというニュースが飛び込んできた。

http://japan.cnet.com/entertainment/35037682/

デジタルオーディオの時代になって以来、どこかオーディオの音質にはあきらめムードというか、「そんなことよりたくさん持ち歩ける方がいい」という空気が支配的になっていた。

しかし、128GBといった容量の機器が出始めるに至って、すでに「持ち運べる曲数」はほとんどのユーザーで飽和している状態になっている。そのあたりからデジタルオーディオはなんだか「どうでもいい」存在になってしまっているように思える。スマホのオマケでもかまわないぐらいの存在感になってしまっているのだ。

僕もスマホをXperia VLに持ち替えてからは、ちょっと具合の悪くなったネットワークウォークマン NW-A845をほとんど持ち歩かなくなっていた時期があった。二つ持ち歩いて、二つバッテリーの心配をするほどウォークマンに必要性を感じていなかったのである。

しかし、Xperiaは稀に音が飛んだり(音楽聴きながらWeb見たりしてるからなのだが)するのと、イヤホン端子にカバーが付いてたりしていちいちめんどくさいのだ。

そんなこんなで、今はまた両方持ち歩いているのであるが、それでも192Kbpsのmp3で圧縮した音を聴いているところもあり、音質については一定の「あきらめ」がずっと付いて回っているのだ。

そこにハイレゾ音源販売のニュースである。

これまでもSACDなどでハイレゾ音源は販売されていたのだが、デジタルオーディオ時代に逆行するようなもので、まったくパッとしていない。

しかし、今配信で販売するとなると、いくつかのハードルがクリアされる。

  • 音楽はそもそもがロングテールなものだが、ハイレゾとなるとそれがさらに極まる。媒体では無理だが、ネットワーク配信なら商売になるかもしれない。
  • プレイヤーの容量もハイレゾ音源を十分に扱えるレベルになっている。
  • mp3の音質にあきらめを感じている人が一定量存在する。

そしてもうひとつ、ハイレゾ配信というのは、レンタルCDや音楽配信ビジネスにおいての対抗馬との差別化に有効であるということだ。

実際、moraでアルバムを見つけても、同じものをTUTAYAで見つけられれば250円で入手できると考えると少し購入を躊躇してしまうのだが、SACDがTSUTAYAにあるとはちょっと考えにくい(あるのかもしれないが)。それだけでもこの種の迷いはなくなる。

今のデジタルオーディオに感じている「あきらめ」をすっかり打破できる日が来ると思うと、少し気持ちがウキウキしてくる。ハイレゾ対応のネットワークウォークマンやヘッドホンも用意されていて、SONYさんの本気ぶりが感じられる。

http://japanese.engadget.com/2013/09/25/nw-zx1/

これまでも、iPodはハイレゾ音源に一応対応しているし、ハイレゾ音源を配信しているサイトもあったのだが、ハードウェアとネットワークサービスが連携してハイレゾに取り組んだのは初めてなのではないだろうか。

オーディオ機器メーカーとしてSONYさんには一層頑張ってもらいたいものである。

揺らぐ自信 けのうた

子供と一緒に「しまじろうのわお」を見ていて、慌てた。

「けのうた」という曲が、かなりきわどいのである。

http://mora.jp/package/43000001/4582290395715/

とうとうしまじそうにもボカロか!と驚いたのだが、聴き進むとどうもボカロにしては「歌えてる」気もしてくるのだ。この感じをボカロで出そうとすると、前にも書いたように「手間が合わない」はずなのである。

もしかしてボカロもすでにこのレベルに達しているのか・・・などと思ったり。いやでもしかしちょっと無理じゃないかなぁという気もしたりしながら、番組最後のクレジットでは、

うた 蜂須 みゆ

との文字が。

微妙な名前!!これが「蜂須ミユ」だったら完全に騙されているところだった。

しかしどうしてもボカロとは思えず、ググってみたところ蜂須みゆさんのホームページが。

http://hachisumiyu.com/info/

そうだろそうだろ、やっぱり人間の声だと思ったよ!などと一人で勝ったような声を出したりしたのだが、

http://hachisumiyu.com/info/?page_id=148

にある自身の曲サンプルを聴いてびっくり。とても同じ人の曲には思えない。これは別人だ・・・と思ったりしたのだが、よく見ると同じページの右上に「しまじろうのわお」の文字が。

安心した。まだ聞き分けられるぐらいの違いはあるようだ。

しかし肉声の方から限りなくボカロの声になるように削っていかれると、聞き分けるのが難しくなってくる。そのスレスレのあたりを狙っているようエフェクトなのだろう。かなり自信のゆらぐ演奏であった。おもしろかったけど。