planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜 アニメ化おめでとう!

七夕からアニメ「プラネタリアン」の公開が始まりました。

今日未明から第二話が公開されており、短いながらもとてもよくまとまっていて原作を知っている人も知らない人も十分に楽しめる作品になっていてしみじみと喜びを感じています。

第二話のキーワードは「ロボットの天国」だと言えるでしょう。

あまり書くとネタバレになってしまうのですが、ゆめみが立体映像で再現した職員たちの映像を鑑賞するポイントは

・ おそらくゆめみにもっとも近しい人たちで、別れの際に涙まで流してくれた人たちでさえ、無意識にゆめみの行く天国は自分たちの天国とは違うところだとつい語ってしまっている。

・ そしてその何気ない言葉が、ゆめみの「心」に大きな傷を植え付けてしまっている。

というところでしょう。

そしてこの先に、この話の大きなテーマが横たわっています。

作品として一般的な(というか「ありがちな」という言葉を使ってもいいかもしれません)創作をしてしまうと、このシーンで人間がロボットに天国を教えてあげる説明としては「ロボットも天国に行けば人間と同じ魂になって対等になるよ」という持って行き方が定石な感じだと思うのですが、この作品はその辺をスラリと外していきます。

そして最終回で明らかになると思われますが、ゆめみの受け止め方もここを外してくるのです。この辺がこの作品のすごいところなのでしっかり鑑賞してください。この部分が、ただでさえ悲壮なエンディングに追い打ちをかけるように暗い影を添えているのです。

第二話の最後でゆめみが寝落ちする直前に言いかけた言葉が、この作品の描く悲劇が物理的なものだけではないことを語っているのです。

 

高鈴 「愛してる」

土曜日、昼間から居間でウトウトしていたら子供が見ていたアニメの挿入歌が流れてきた。

最初は何となく聞き流していたのだが、途中からとんでもなく神経がそっちに向かってしまって、曲とアニメが終わるときには歌詞の一部で検索して曲名とアーティストを突き止め、15分後にはmoraでアルバムごと購入していた。こんなこと久しぶりだ。

それが高鈴の「愛してる」である。夏目友人帳の第二期の挿入歌らしい。それにしても美しいメロディと歌詞、それに加えて確かな技術に支えられた歌声が息を飲むレベルで、失礼ながらアニメの挿入歌のレベルをはるかに超えているように思えた。

声はどこか倉橋ヨエコを思わせるようなところがあるが、歌う歌自体は歌謡曲としてはストレートな内容である。非常にインパクトのある歌声なので耳を引くと思うのでもう少しメジャーになってもよさそうなものだが、もっとも売れたアルバムでもオリコン最高111位と今ひとつ振るわない。

僕がアニメの主題歌を耳にして声に惹かれはまっていったボーカリストは実はもう一人いる。こち亀の「葛飾ラプソディー」を唄った堂島孝平である。この人もなかなか頑固というか自分の音楽をひらすら貫く人のようで、高鈴同様メジャー街道に乗るところまで行っていないように思える。

ただ、堂島孝平同様、高鈴も固定ファンが根強く着いていて音楽活動をつづけていくことに支障が出るような状態では無さそうである。

彼らを見ていると、実は最も幸せなアーティストというのはこのように自分の音楽を自由なペースで好きにやらせてもらって、精神や体を病まずにずっと音楽活動を続けていけるような人たちなのではないかという気がする。

全部完全にイメージだけで語っているのですが。

planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜

このところすっかり「遅れてきた鍵っ子」である。

この土日はタイトルの「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」を鑑賞していた。

あらすじなどについては詳しいサイトが沢山あるので割愛するが、最後まで見た後で読書感想文的な整理をすると、

「プラネタリウムとて電源を失えば暗闇の中の金属とガラスのかたまりである。しかし人がそこに宇宙を感じることができるのならば、アンドロイドの中に命を感じることもできるのではないか?」

という感じである。

廃墟となった都市で誰にも知られず30年も客を待ち続ける美少女型アンドロイド、というだけでもう泣かせる気満々なのが伝わってくるが、そんなことは百も承知で見ているにも関わらず最後にはグッと来てしまうのはさすがの演出と言える。

どう転んでも悲劇的な結末になりそうな話で、案の定悲劇的な結末をむかえるのだが、何とかならなかったのだろうかという気がする。

誰かが自分の知らない間もずっと古びた機械とともに生き続けていて、自分が来るのを待ちつつ廃墟化していく、という設定はなかなか万能なのではないかと思い、これまで見たものの中から脳内検索してみたのだが、そこで出てきたのは「ニューシネマパラダイス」である。

と考えると、この話にも「ニューシネマパラダイスのオチ」的なものが付けられていたらもう少しエンディングの陰鬱な感じが晴れたのではないかと思われる。

うまく整理すれば2時間もののドラマとしてちょうどいいボリュームの話なので、このあたりを解決してぜひもう一度日の目を浴びてもらいたいと思わされる良作である。

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などと書いて下書きにしたまま忘れていたのが2月29日である。

今日YouTubeを見ていたら、「プラネタリアンアニメ化」のニュースが入ってきて仰天している。まさかまさか。

クラナド 18話 「逆転の秘策」

いまさらと言えば今更なのかもしれないが、アニメ「クラナド」にはまっている。このアニメについてはもういろんな人がさんざん書いているので僕が改めて書くようなこともないと思うのだが、ほかの人の解釈を読んでいて一つだけひっかかったことがあるので書いておこうと思う。

それは、18話 「逆転の秘策」で「藤林姉妹のどちらが先に泣いたか」ということである。

このアニメ、特にこの18話の「藤林姉妹と智代が朋也のことをあきらめる」件の演出が神がかっていて、そのこと自体はほかでも触れられているのだが、藤林姉妹の姉の杏が先に泣いたと思っている人が意外に多いような気がするのである。

実は僕も初見ではそう読み取っていたのだが、あの状況で姉が先に涙を流すという点に少し違和感があって、もう一度見直してみたのである。そしてよくよく見てみると、実は妹が先に泣きだしたと解釈すべきポイントが結構あるようなのだ。

一つは、椋が「今まで、本当に…」と言った時に椋を不自然に真後ろから見るカットになっていることである。これはもちろん杏の顔を正面から見る絵がほしかったとも考えられるが、そのために椋の後頭部をわざわざ見せる必要はないのではないかと思うのだ。

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もう一つは、杏の視線の動きとセリフである。上の絵で杏の視線ははっきりと椋にいっているが、その時杏が目にして「やだ…」と言ったものは、椋の涙だったのではなかろうか、という気がするのだ。そのあと杏は妹から視線を外して「もらい泣き」してしまうのである。もちろんそこには自分の気持ちの部分や、自分の気持ちに妹が気づいていたこともあったのだろうが。

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三つ目は改めて椋を正面から見たときの顔が「出来上がりすぎている」ことである。杏より後で泣き出したのならあそこまでぐしゃぐしゃにならないのではないかと思うのだ。

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そう思ってこのシーンを見てもらうと、椋が先に涙を見せる絵を「あえて見せずに」「でもよく考えればわかるように」演出しているように思えてくるのだ。そう考える方が自然なカット割りなのである。杏の視線の動きのみで椋の状態を表現しようとしているのである。

このシーンはもう五〇歳近いおっさんがもらい泣きをしてしまうほどの感動シーンなのだが、それとは別に本当に感心するしかないような作りになっている。

もう一つ際立っているのは智代の描き方である。

智代は「そういうことか…」と一言漏らした後、一度メンタルを立て直して試合に戻る。

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勝った後、泣いている姉妹の後ろで二人を見ながら虚ろな表情で棒立ちするのだ。一緒に泣きたい自分を押し殺すように。

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最後は智代の顔に寄りつつその目線の先の青空のカットで終わる。数分のシーンだが、本当に神がかった演出だと思う。

このアニメ、細かく見ていくと本当に勉強になることが多い。ブルーレイ買おうかなぁ…

掛け算の順序

以前にもこんなエントリを書いた気がするのですが、

掛け算の考え方

「りんごがかごに3こずつ乗っていて、かごが4こあったら全部でいくつ?」の式は「3×4であって4×3は間違い!答えだけあっていてもダメ!」という考え方がしっくりこない。

一時期ネットでも結構な議論があったのだが、僕なりに最近やっと違和感の理由を消化できた気がするのでボツボツ書いてみようかと思う。

女房が子供に教えているのは「”ずつ”が付いているほうが先!」の一点張りである。これはこれでテストで100点を取るための方法なので間違ってはいないのかもしれない。

しかし、これは掛け算を、少なくとも二つある視点のうちの一つからしか見ていないのである。

  1. 一つのかごから3個取り出す作業を4回行った結果の操作の数
  2. 四つのかごから1つずつ取り出す操作を3回行った結果の操作の数

どうも掛け算の順序にこだわる人は、後者の考え方を「ありえない」「わざわざこんなとらえ方は普通しない」と思っているようなのだ。

「普通そんな考え方はしない」なら問答無用で間違いにするのか、という突っ込みもあるのだが、そもそも「普通そんな考え方はしない」ということの方が間違っているのではないかという気がするのだ。

割り算の考え方

割り算について考えてみる。割り算は掛け算と違い二つの問題を作ることができることがわかる。

「12個のみかんを3個ずつかごに入れると、かごは全部で何個できるか」

「12個のみかんを四つのかごに入れると、一つのかごにいくつ入るか」

前者の問題を頭の中で考えてみると、一つのかごに3個のみかんを入れていくとみかんが無くなった時に4個のかごができている、というような操作が浮かぶ。

後者はどうだろう。この時点では一つのかごに何個みかんが入るかはわからないのだから、「四つのかごにみかんをひとつずつ入れる操作を、みかんがなくなるまで繰り返すと3個ずつはいる」という操作をするのではないだろうか。

この後者の考え方というのは、掛け算で否定された二番目の考え方と操作が逆なだけで全く同じなのである。

この後者の問題を割り算として理解できるなら、掛け算の問題を「かごから一つずつみかんを取り、なくなるまで繰り返した際の操作の数」として理解していても何の不思議もない。少なくとも「間違った考え方である」と断言されるような理由はないのではないかと思うのだ。

掛け算のとらえ方は割り算同様二つある。まだ割り算を習っていない間は確かに後者のようなとらえ方をする子供は少ないだろう。だからといって確認もせず「間違い」と決めつけるのはあまりにも手抜きすぎやしないだろうか。

「そんなこといちいち個人に確認できない」なら間違いにしなければ済むことなのだ。間違ってはいないのだから。

どうせ割り算を習う時には後者の発想を理解できなければならないはずで、その時には「掛け算も同様に、どっちにとらえても正解」にしなければおかしいのである。

小学校の先生や教材会社の人たちは、「ずつが先でないから×」と子供の頭の中で何が考えられているかを個別に確認することもなく決めつけることを避けてもらいたい、と切に願うものである。

ただ、本当のことを言うと、最初に掛け算を習う段階で「後者の考え方でも掛け算は解釈できる」ということをきちんと教えるべきだと思うのである。どうせ割り算を教える時にやらなければならないのだから。

Ingress無情

Ingressを始めて3週間ぐらいになる。やっとレベルが7になってそこそこ戦えるようになってきた。

しかしこのゲーム、結構生々しいというか、戦いの無情さを肌で感じられるところがある。

ある日、都内にある仕事場の近くに最近生えたポータルを、どれくらい長く維持できるか、試しに朝から晩まで暇さえあればリチャージし、時にはまさに攻撃を受けている最中だったりして、みるみる減っていくレゾネータに「死なないでー!生きてぇ!」と心の中で絶叫しつつ相手があきらめるまでひたすらリチャージをしたりしたのですよ。

それでも何とか無事に帰る時間を迎え、シールドなど挿して万全の体制を整えて岐路についたわけです。

そうしたら会社を出て15分もしないうちに強力な攻撃を受け、リチャージも間に合わずわがポータルは半日で敵の手に落ちたのでした。

結構情が移っていたそのポータルを奪った敵がそれに何をしたかというと、L1のレゾネータを1本だけ挿して去っていったのです。

よっぽど会社に戻ろうかと思いましたよ。

イメージとしては完全に、戦友が敵に首を取られてさらし首になってるのを見た感じですよ。

しかし戻ることもできなかった僕が何をしたかというと、帰路にある敵の某ポータル密集地帯でL7のバスターを収支など無視して力の限り放ち、真っ白になった廃墟にL1のレゾネータを1本ずつ挿して回っておりました。

その時そこにあったのは、四人の子を持つ人間でも、依頼された仕事を頑張ってこなすプログラマでもなく、ただの狂人であったのでしょう。

そして今はただ、スマホの電源を入れっぱなしにして自転車で走り回り、XMを集めては傷ついた誰か知らない人ののポータルにリチャージして回るという、出家をした武士のような生活を送っているのでございます。

いやこの行いはリチャージなどという軽薄なものではなく「利捨解」とも呼ばれるべき行為なのでございます。

(都内ではオーナーが変わらないまま朝を迎えられたポータルはかなり運がいい方であることがわかってきたのはレベルが8を超えたころでした)

ボーカルのブレス(息継ぎ)音

21世紀以降ぐらいからだか、スタジオレコーディングされたボーカルにはっきりとブレス音が聞き取れるものが増えてきたように思う。

平原綾香や平井賢あたりから目立ってきたように思うのだが、僕が最初に意識したのはPerfumeのBaby Cruising Loveである。この曲には部屋のスピーカで大音量で聞くと頭が吸い込まれるのではないかと思うほどのブレス音が頭に入っている。

ブレス音でググってみると、この音について否定的な人の多さに驚かされる。曰く

  • 美空ひばりはブレス音が全く聞こえなかった
  • ブレス音が大きいのはブレスが下手ということ
  • きちんと訓練された歌手はブレス音を出さない

とまぁおおむねこのような論調になるのである。

昭和以前にはまぁこのようなこともあったのかも知れないが、今だにこのようなことを言うのはちょっとどうかと思う。

現在のスタジオレコーディングされたCDに入っているブレス音は、すべて意図的に「録音され」て「入れられた」か「残された」ものである。

割と最近のレコーディングでは、西野カナの「Daring」がわかりやすい。

このアルバムに入っている3曲で、表題曲の「Daring」ははっきりとブレス音が残るようにレコーディング、マスタリングされている。

二曲目の「LOVE & JOY」は、まったくブレス音が聞こえないが、三曲目の「Still love you」は少しだけ聞こえる、というような構成になっている。

ブレス音がCDに入っているかどうかというのは、歌手の技量とは全く関係なくレコーディングとマスタリングのプロセスの中で音楽的演出を考えて取捨選択されているだけなのである。

昔はテープの編集で音楽を作っていて、ブレスの音を捨てるのは大変な作業だったので、最初からブレス音がマイクに入らないようにしたりそもそもブレス音が出ないように訓練された歌手がありがたがられていただけなのである。

すべてがデジタルレコーディングされている現在ではブレス音も含めてすべて録音してしまって、後で不要なものを削除していく方がよほど効率がいいので歌手はブレス音をあえて消す努力をする必要がないというか、意図的にブレス音を残すような歌い方をしているのである。

もちろん聴く側にしてみれば、ブレス音がうっとおしいと思うのは自由である。ただそれも含めて音楽を作る側の意図なので、嫌いならそれでしょうがないというだけのことなのだ。「Baby Cruising Love」の最後に入るブレス音は、肉体的には必要がないものなので、後で足しているのではないかとさえ思われる。無論それも音楽なのだ。

ブレス音を意識的に残すという音楽的演出はだいぶ前からあったものだが、今になってボーカロイドとの差別化になっているところがちょっと面白い。もちろんボーカロイドの声に後でブレス音を足すことはできるのだが、こんなところで「引き算で音楽を作る」ことと「足し算で音楽を作る」lことの違いを感じることができる。

このブレス音は、フルートソロのCDでも残されているものと消されている(もしくは入らないような配慮のもとでレコーディングされている)ものがある。もちろんもともとブレス音が小さいフルーティストもかなりな割合でいると思うが。

しかしこのブレス音ごときで「気になる」とか言っていたら、ピアノ弾いている間ウーウー唸っているようなピアニストのCDなど絶対聴けないのではないかと思う。まぁ嫌いなら嫌いでしょうがないけど、そんなことでグレン・グールドのゴルトベルグ変奏曲を聴かずに死ぬのはちょっともったいないと思うぞ。

Apple Watch

http://www.apple.com/jp/watch/features/ 

最初に見た瞬間に頭に浮かんだのは「蓮コラ」だったので、その後の印象もだいぶアレなのだが、心拍数がモニタされるのは素直にいいかもしれないと思った。

僕の自転車のサイクルコンピュータにはハートレートモニタなどといういいものは付いていないので、別途買うか買い替えるか、それとも「なくてもいいや」で済ませるのか悩んでいるところなのである。

それにしても、単なる腕時計型で心拍数をちゃんとモニタできるとすれば結構すごいことなのではないだろうか。他のメーカーでは別途センサーが必要なものが多い。

日本精密測器のPulNeoとか。

http://www.nissei-kk.co.jp/html/hr70.html

カシオのSTB-1000とか。

http://casio.jp/wat/products/phys/stb1000/

ポラールのとか。

http://www.polar.com/ja/products/improve_fitness/fitness_crosstraining/FT60

本当に手首だけで正確な計測が出来るのだろうか…

 

乾くるみ「セカンド・ラブ」

「イニシエーション・ラブ」、「クラリネット症候群」に続いて読んでしまった。正直、面白い。

この「セカンド・ラブ」という作品が面白いのは、その作品そのものというよりも「イニシエーション・ラブ」の読者に読まれるという本書の位置づけの方なのではないだろうか。

読者は当然「今度は騙されないぞ~」と、最初から目を粉にして読んでいくだろうから、作者としては当然それを想定して、それをどう裏切って読者を納得させるような着地点を見つけるか、というところが執筆開始時の目標だったに違いない。

結果、ミステリーっぽいオチに読者の注意をひきつけておいて他のところで落とす、という戦略に出たものと思われる。そしてそれは、大多数の読者にとって十分効果的だったのではないだろうか。実際僕も作者の意図通りに楽しませてもらった。

ただ、読みながら書いたメモに「春香はなぜ二役をしていたのか」「元やくざは何だったのか」という記述が残されていて、Web上の他の人の感想を見てもやはりヒロイン(というか相当な悪女なのだが)の行動に必然性を感じないという声が多いようだ。

後者はともかく、前者に関しては僕は何となく自分の解答のようなものを得ている。

春香は、実は「美奈子に取り憑かれている」ような状態だったのではないか、と思ってしまうのだ。「見える体質」なのだから、そのようなことがあってもいいと思う。ラストで、春香がシェリールでとった行動について妙に第三者的な語り語りかたをしているのも気になる。春香がシェリールに現れた時期と、美奈子が自殺した時期も時系列として合っている。著者がそういう想定で書いたと思えなくもないのだ。

「取り憑く」と言えば、この著者が「マリオネット症候群」を書いていることも興味深い。そもそもそういうのに抵抗がない小説家なのである。

もう一つのナゾ、元やくざの倉持の件にはどうにも説明を付けられない。この作者がこれほどの伏線を投げ出すとも思えないのだが…

 

 

それは障害児ときょうだい児の愛の物語…か?

ここ数日何度も何度も「アナと雪の女王」を頭の中で反芻している。

この物語が「同性愛を肯定している!」と言われているという話をどこかで読んだ。まぁ確かにそう読めなくもない。最後の方でエルサがアナに

「私のために犠牲になってくれたの?」

と質問するくだりがあるのだがこれへのアナの返答が

「…I love you.」

なのである。

英語圏のloveは、日本語として使われるときのニュアンスよりもずっと広い意味で使われるので、これを兄弟愛と解釈しても何の問題もないのだが、逆に言えば同性愛として解釈することもできることになる。

ちなみにこの部分、字幕では「だってあなたの妹だもの…」というような訳がついていたと思う。直訳すると日本人には同性愛的なニュアンスしか感じられないと翻訳者も思ったのだろう。

さて、そんな解釈もできる「アナと雪の女王」だが、別の見方もできるように思われる。

それは、エルサの能力を「障害」ととらえると見えてくる。

制御できない超能力を持つということは、普通の人の中で普通に生きていくことが難しいという意味で、これは正に健常者の中での障害者と同じポジションとなる。そういう見方をすると、この物語は「自分の障害とどう向き合っていくか」を表すと共に「子供や兄弟の障害とどう向き合っていくか」という非常に重いテーマを持った作品のように感じられるから面白い。

脚本家の意図は分からないが、障害児を持った親がどう振る舞うべきなのか、障害児の兄弟はどうなのか、この物語はこの物語なりの解答を出してくれているように思う。これ以上はないほどのきれいごとにしか感じられないかもしれないが。

見る人によって全然別の解釈ができる「アナと雪の女王」是非見てみてください。できれば吹き替えと字幕の両方がおすすめです。